お釈迦様【人は幸せになる為に生きる】ゴータマ・シッダールタ

お釈迦様

お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の教えは、人は幸せになるために生まれて来たということです。

住む所や食べ物や着る物など全てはお金から成り立っていますが、お金が十分過ぎるくらいあっても何かが無ければ空しいものです。

その何かとは、人それぞれ違うその人を満たしてくれるその人にとっての本物の幸せのことです。

①【お釈迦様 人は幸せになる為に生きる ゴータマ・シッダールタ】35歳で仏陀になった

お釈迦様は本名がゴータマ・シッダールタという実在していた人物で仏教の開祖です。

生存していた時代は紀元前6世紀から5世紀の間と言われはっきり分かっていません。

お釈迦様はネパールとインドの国境付近のルンビニーという小国で生まれた(4月8日)北インドの人物です。お釈迦様は80歳で食中毒でお亡くなりになりました。

お釈迦様はバラモン教におけるカースト制度の4つの階級の、上から二番目のクシャトリヤという王家の階級に生まれています。

カースト制度では王家に生まれたら一生王家の位は変わらず、結婚も同じ位の者同士でしかできないという決まりがあります。

バラモン教とは古代インドの民族宗教で紀元前13世紀ごろアーリア人がインドに侵入しインドで成立させた宗教で、聖典ヴェーダを権威とするヒンズー教の前身となった宗教で自然崇拝の多神教です。

カースト制度はバラモン教によってつくられヒンズー教に受け継がれています。

カースト制度の4つの階級とはバラモン(僧侶/司祭階級)・クシャトリヤ(王族/武士階級)・バイシャ(庶民階級)・シュードラ(奴属民)でカースト制度は現在もまだ根深く続いているのです。

お釈迦様の開いた仏教の教えは反ヴェーダ思想です。

お釈迦様は王家の後継者として何不自由なく育ち、19歳の時に結婚し、妻子がいる身でありながらも人間が通る生病老死という現実に目を向け29歳の時に出家します。

しかし6年間に渡る苦行の末にもかかわらず悟りを得ることはできず心身は衰えてしまいます。

出家する前の王家でのお釈迦様は街に視察に行く時、病気の老人や病気で亡くなった人を見て、生老病死は避けることのできない誰にも平等に訪れるものでありますが、バラモン教にとらわれずに生老病死を見つめてみたいと思い父親の反対を押し切り出家します。

沙門(しゃもん)といわれる出家して隠れ住んだ人は沢山いました。

そして水にずっとつかったり息を止めたりと様々な難行苦行に取り組み断食までして6年間過ごしましたが自分の中での価値観の変化はありませんでした。

結末は極度の断食から体調不良になり、とうとう難行苦行をやめ村へ帰ることにしたのです。

そして何とか村へ辿り着き、村の娘のスジャータという子から乳粥(ちちがゆ)を食べさせてもらい、一命をとりとめることができました。

その後お釈迦様は菩提樹の下で座禅を組み瞑想にふけり、ついに35歳の時に悟りを開く境地に達したのです。

人は何のために生きるのかというと、それは幸せになるために生きるということを見出したのです。

お釈迦様が辿り着いた境地とは「諸行無常」というものです。

それはこの世のものは全て因縁から起こり常に流動変化するものである、という考え方です。

諸行無常は仏教用語です。

鎌倉時代に成立したとされる日本の軍記物語で平家の栄華と没落や武士階級の台頭などが描かれている平家物語(作者不詳)の冒頭の原文は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅(さら)双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。」というものです。

これはお釈迦様について書かれている決定的な文章です。

これは祇園精舎の鐘の音にはこの世の万物は常に移り変わっているという響きがあることを示しています。

仏陀は亡くなるとき望んで横になった場所が沙羅の木が対になっている所だったということから、仏教の開祖である立派な仏陀でも亡くなる時がくるという、盛者必衰の道理を表すことが示されています。

祇園精舎とは仏陀の説法をする場所として仏陀の時代に建てられた寺院で、古代インドのコーサラ国の首都シュラーバスティー(現在のウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県)郊外にあった仏教の寺院で、正式名称を祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)といいます。

沙羅(さら)の木は仏教における三大聖木といわれる樹木の一つで、他の二つは無憂樹(むゆうじゅ)と菩提樹(ぼだいじゅ)です。

沙羅の木は常緑の高木(小高木)で、3月から7月にかけて小さい白い花が咲くインド原産の木です。

仏(ほとけ)とはお釈迦様など仏教の信仰の対象になる優れた存在の人で仏陀のこと、または仏像のことをいい、日本人は故人のことも仏(ほとけ)と言います。

仏教でいう仏様は仏陀(ブッダ)のことで、仏様(仏陀)の悟りを開いた悟りの最高の位の人のことです。

お釈迦様のことを釈迦牟尼(シャカムニ)ともいいます。お釈迦様が悟りを開き仏陀になったということです。

お釈迦様はシャーキャ族の国王の家柄に生まれ、シャーキャ族のことは釈迦族といいます。

お釈迦様という名はこの釈迦族からきています。

「陀」は梵語(ぼんご/古代インドの言語であるサンスクリット語)の人名用漢字で、意味としては、ななめ、に当たります。

②【お釈迦様 人は幸せになる為に生きる ゴータマ・シッダールタ】生きる意味は幸せになること

お釈迦様の言う通り人間は生老病死は避けて通れず誰にでも平等に訪れます。

確かに若い時は体力もあり疲れも気にならないくらいに健康で活気に満ちています。

しかし果たして幸せなのかと日々を振り返るといつも大変なことが次から次に起こり、それを乗り越えていくことに必死です。

しんどいこと大変なことが多く、健康のありがたみや若さの良さを思い巡らす余裕すらない状況です。

どちらかといえば一年年齢が上にいく度、確かに外見は年相応になるとしても少しずつ一年前よりは過ごしやすくなっているかなというところです。

一気に幸せになることはできなくても、毎年少しずつ年々幸せになっていくことが理想です。

今はまだまだ幸福にはなれていない状態です。

まだまだ序の口でこれからもっともっと幸福になっていきたいと思っています。

何が幸せかというと楽しく毎日を過ごすということです。

これは毎日遊び暮らすということではありません。人によって価値観が違い、何がどうなることで毎日が楽しいのかにも人によって大きな差や違いがあると思います。

その点は勿論人それぞれで人によって違って当然です。

以前は人間は働くために生まれて来たと思っていましたが、今はそれだけの為に生まれて来たのだとは思いません。

人間は幸せになるために生まれて来たというお釈迦様の教えは人類誰もが理想とするところだと思います。

つまりは人は幸せになるために働くということで、働くことは幸せになるための一つの手段です。

よく小さな女の子が大きくなったら何になりたいという問いかけに、大きくなったらお嫁さんになりたいと言いますが、これは大きくなったら幸せになりたいということなのです。

また形と中身も違うのです。

いい家に住んでいい洋服を着ていつも美味しい物を食べれてもそれが幸せとは限りません。

お釈迦様もそうだったように何かが足りないということで、その何かが要(かなめ)なのです。

その何かとは見せかけではない本物の幸せなのだと思います。

日本の八百万(やおよろず/数の極めて多いこと)の神の最高神で太陽の女神である天照大神(アマテラスオオミカミ)は、人々がより良く生きるためにこの世を太陽で明るく照らしてくれているのですから、せっかくの明るい日の光のもとで自分が幸せと思える日々を過ごすことが理想です。

例え狭い家に住んで居ても、たまにしか美味しい食べ物が食べれなくても、そういうことはあまり問題ではないと思います。

あくまでも幸せの価値観は人ぞれぞれ違うので、その人の価値観での幸福をめざすことです。

③【お釈迦様 人は幸せになる為に生きる ゴータマ・シッダールタ】まとめ

仏教というとお葬式をするお寺というイメージが強く、お寺お坊さんお経お葬式が仏教と思ってしまいがちです。

そして境内にお墓があるため、仏様というのは亡くなった人というイメージが強いところです。

日本ではその意味もありますが、仏様とは広い意味では仏陀のことです。

人間に限らず万物はいずれは老いていき病気にもなります。

しかし人は老いていき体の細胞は若い時より古くはなっても知恵や物事の考え方や色々な経験や学びから、幸せになることはできその幸せになることは自分の内なる考え方で決まります。

お釈迦様は悟りの中でそのことを身をもって教えてくれているのです。

仏教の開祖ゴータマ・シッダールタというお釈迦様・仏陀は人間愛に満ちた素晴らしい人で、そういう人が架空ではなく実在していたということがとても嬉しいです。

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