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八幡宮 武士の守護神の八幡神を祀り神社の総数は全国で一位

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八幡宮には八幡神が祀られ武士の守護神で、初代征夷大将軍の源頼朝は八幡大神を崇拝し、初めて武家政権の鎌倉幕府を開きました。

総数は全国で一位の数の多さで四万数千社あり、当時は神仏習合が盛んな時代でした。八満宮は苦しい状況の人々を守ってくれる神様です。

①【八幡宮 武士の守護神】鶴岡八幡宮

八幡宮というと鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)が印象深いです。

鶴岡八幡宮の御祭神は八幡大神(はちまんおおかみ/やはたのおおかみ)である応神(おうじん)天皇(第15代 201年~没年不詳)・神功(じんぐう)皇后(応神天皇の母)・比売神(ひめがみ)です。

比売神(ひめがみ)は神道の女神であり神社の御祭神を示すときに並んで書かれる女神で、特定の神の名前ではなく主祭神と関係の深い妻や娘など関係の深い女神のことです。

応神(おうじん)天皇は弓矢の神として、特に武士に崇拝されました。

鶴岡八幡宮は鎌倉幕府(1185年)の初代征夷大将軍(1192年)である源頼朝(1147年~1199年)が崇拝した神社で、武士の守護神です。鶴岡八幡宮が1063年に創建されると、武家の神様としての八幡大神の信仰が全国に広まり、八幡宮の分社や末社が全国に創建されていきました。

八幡宮は「八幡さま」ともいわれ日本一多い神社で全国に約四万数千社あり、とても数の多い神社で、宇佐神宮(大分県宇佐市)が総本社です。

鶴岡八幡宮は楼門まで登る石段が印象的です。なかなか登るのが大変ですが、どの参拝客の方も黙々と登っています。

鶴岡八幡宮が創建された頃の八幡宮は完全な神仏習合形態で、阿弥陀仏の信仰をしていました。

鎌倉には1252年に鋳造が始まった鎌倉の大仏があります。鎌倉の大仏は「長谷(はせ)の大仏」とも呼ばれ、浄土宗の寺院「高徳院」の御本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」です。お寺の正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)といいます。

大仏殿は1495年に地震による津波で流されています。大仏は高さは13m総重量は122トンあり、鎌倉で唯一の国宝です。大仏鋳造の理由はお亡くなりになられた方の御霊を鎮めるためといわれています。

1195年源頼朝(1147年~1199年)は奈良の東大寺の大仏を見て東国にも大仏を造りたいと願ったのですが、思いを果たすことなくこの世を去り、侍女の稲多野局(いなだのつぼね)によりその遺志が伝えられ1238年から6年かけて木造の大仏が造られています。

その後1247年に台風で木造の大仏は壊れてしまい、1252年に現在の青銅製の大仏の鋳造が始まりました。完成した時の記録は無いため完成の年は不明です。

日本三大八幡宮は4社あり、宇佐神宮 (725年に創建 / 大分県宇佐市)、石清水(いわしみず)八幡宮 (859年に創建 京都府八幡市/やわたし)、筥崎宮(はこざきぐう)(921年に創建 / 福岡県福岡市)、鶴岡八幡宮 (1063年に創建 /神奈川県鎌倉市)です。

②【八幡宮 武士の守護神】宇佐神宮

宇佐神宮(大分県宇佐市)は八幡大神が初めて祀られた神社で、725年(奈良時代)に創建されました。

15代応神(おうじん)天皇、神功(じんぐう)皇后、比売神(ひめがみ)の三柱が御祭神です。

応神天皇の父は仲哀(ちゅうあい)天皇で母は神功(じんぐう)皇后です。

宇佐神宮は全国に四万数千社ある八幡宮の総本社です。全国にある神社の総数は八万数千社なので、四万社以上ある八幡宮の数というのは物凄く沢山の数ということになります。その数の多さに圧倒されてしまいます。

宇佐神宮は八幡造(はちまんづくり)という造り方の様式で本殿は上宮と下宮から成り立ち国宝であり、正面から向かって左側より、一之御殿に八幡大神である応神(おうじん)天皇、二之御殿に比売神(ひめがみ)、三之御殿に神功(じんぐう)皇后が上宮と下宮両方に祀られています。

宇佐神宮は天皇の使いである勅使が遣わされる勅祭社で、これは全国で16社しかなく、九州では宇佐神宮と香椎宮(かしいぐう/福岡県福岡市)のみです。香椎宮(かしいぐう)は愛する人がどうか幸せでありますようにと神様に願う神社です。

720年に大和朝廷が南九州の隼人(はやと/古代日本で南九州現在の鹿児島県本土地域に居住した人々)の朝廷への反乱を鎮圧した後に凶作となり病気が流行り、殺生(生きものを殺すこと)の祟りと恐れられ、八幡宮が仏教に救いを求め神仏習合が始まりました。

八幡大神は奈良時代(710年~784年)末期には菩薩号となり、石清水八幡宮に鎮座する頃(859年)には完全に神仏習合しています。神仏習合では僧侶が主な職務を占め、神職についている者は僧侶に従いました。

菩薩とは仏の次の位で、仏道を成就させようと悟りを求め民衆を救う者をいいます。サンスクリット語(古代インド語)ボーディ・サットヴァ の音写の「菩提薩埵 (ぼだいさった) 」の略語で悟りを求める人の意味であり、薩埵(さった)とは求める人という意味です。

八幡大菩薩は平安時代(794年~1185年)中期には伊勢神宮に次ぐ天皇家に由来の深い位置付けとされました。

宇佐神宮の参拝の作法は二拝四拍手一拝で、出雲大社の参拝の作法と同じです。「拝(はい)」とは深い(90度)お辞儀のことです。

宇佐神宮の鳥居は独特な造りで宇佐鳥居といい、鳥居の色は朱色で太陽の色であり魔除けと厄払いの意味があります。

③【八幡宮 武士の守護神】石清水(いわしみず)八幡宮

石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市/やわたし)は859年に創建されました。

石清水(いわしみず)八幡宮で元服した源義家は後に鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先です。源義家は八幡太郎として知られ、源氏を勢い付け源氏一族のために活躍しました。

元服とは奈良時代以降、公家や武家の男子が11歳から16歳の間に成人になったことを示す儀式のことです。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も石清水(いわしみず)八幡宮を信仰しています。

神仏習合の形態が強まっていく中で石清水(いわしみず)八幡宮が創建されると、八幡大神の信仰はますます強まりました。

石清水(いわしみず)八幡宮の一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居は石造鳥居です。

④【八幡宮 武士の守護神】筥崎宮(はこざきぐう)

筥崎宮(はこざきぐう / 福岡県福岡市東区)は921年に創建され、筥崎(はこざき)八幡宮ともいい、厄払い・必勝祈願の御利益の神社です。

御祭神は応神(おうじん)天皇(八幡大神)・神功(じんぐう)皇后(応神天皇の母)・玉依姫命(たまよりひめのみこと/神武天皇の母)です。

平安時代以降に八幡信仰が盛んになったことで九州で高い地位の神社になり、鎌倉時代の蒙古(モンゴル)襲来の危機に際しては敵国降伏の神とされました。

一宮(いちのみや)はその地域の中で最も位の高い神社のことで、筥崎宮(はこざきぐう)は筑前国(福岡県)で住吉神社(福岡県福岡市博多)とともに筑前国(福岡県)一宮(いちのみや)です。

日本の律令制度下において明神祭の対象になる神々を祀る神社を名神(みょうじん)大社といい、筥崎宮(はこざきぐう)は名神(みょうじん)大社です。

「筥(はこ)」は、はこ(ふたのある)、という意味です。

応神天皇がお生まれになった時、胞衣(えな・ほうい/胎児を包む膜や胎盤や臍帯)を箱に入れて地面に埋め「しるしの松」を植えたことから筥崎(はこざき)という神社の名前が付いたといわれています。「しるしの松」の下に社殿が造られたといわれます。

本殿の造りは流造(ながれづくり)という様式で、屋根の前の方が曲線状に長く伸びて入り口側の庇(ひさし)になっている造りになっています。本殿と拝殿は1546年の再建であり、楼門は1594年の再建であり国の重要文化財に指定されています。

「一の鳥居」は1609年に造られた石造(いしづくり)の鳥居で「筥崎(はこざき)鳥居」といわれています。「二の鳥居」も石造です。

⑤【八幡宮 武士の守護神】まとめ

八幡大神からは男性的で力強く、武士の神様・武家の守り神というオーラが感じられます。そして男性的であっても質素ではなく華やかさが溢れているところに特徴があります。

八幡宮は数多くあることからも人々に馴染みが深い神社です。八幡宮は煌(きら)びやかで力強いため、八幡宮を見ていると前向きな力が湧いてきます。

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