倭建命(日本武尊 )は地方を平定するためにうまく頭を使い相手の隙をつくことにたけていましたが、自然の山の神に力尽き命を落としました。
倭建命は自然ほど怖いものはないと身をもって教えてくれて、倭建命は最期に大きな白鳥になりました。
①【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】熊襲(くまそ)での最初の征伐
征伐(せいばつ)とは反乱を起こした勢力を鎮圧したり、反社会的な賊などを武力で処罰することです。
古事記ではヤマトタケルノミコトを「倭建命」と書き、日本書紀では「日本武尊」と書き、倭建命は奈良時代の皇族(天皇の皇子)です。
倭建命の父は景行(けいこう)天皇で母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)です。
景行天皇には八十人の御子(皇子・皇女)がいました。
倭建命は子供の頃の名を小碓命(オウスノミコト)といい、双子の兄がいて兄の名は大碓命(オオススノミコト)といいます。
天皇はオウスノミコトにオオススノミコトに「ねぎする(改心する)」ように伝えて欲しいことを頼みます。
ところがオウスノミコトは「ねぎする」の意味を「切り刻む」の意味と思ってしまい、何とオウスノミコトは兄オオススノミコトを殺したというのです。
この時のオウスノミコトは目が爛々(らんらん)としていて、この時から天皇はオウスノミコトを怖がるようになりました。
倭建命は気性が荒く、そのことをよく解釈すればその分戦いが上手ということになります。
倭建命は成長してからは身長が二メートル程あったといいます。
天皇はオウスノミコトが16才の時に、西方の今の南九州地方の熊襲(くまそ)を征伐するようにと命ぜられます。
表向きの理由は天皇がオウスノミコトの武勇の力が優れていたため父に期待されていたということですが、天皇はオウスノミコトを怖がり遠く九州に行かせたのです。
オウスノミコトは世の為に役に立てるのならと喜んで熊襲(くまそ)の征伐を引き受け、叔母の倭姫(ヤマトヒメ)から女物の着物と短剣を持たされます。
オウスノミコトは熊襲の地形を調べ、熊襲建兄弟がしきっていることの情報を得て、新築祝いの宴(うたげ)の準備の時、髪を垂らし叔母が持たせた女物の着物を着て若い娘に変身します。
ひときわ美しいオウスノミコトは熊襲建の目にとまり、熊襲建の横に座らされます。
宴(うたげ)が盛り上がり皆に酔いが回り、熊襲建がオウスノミコトを自分の膝に抱きかかえようとした時、オウスノミコトは今だと思い隠し持っていた短刀で熊襲建の胸を刺しました。
胸を刺された熊襲建は倭(やまと)の国に強い若者がいたことに驚き、自分の名の建を使って欲しいことをオウスノミコトに言ったところオウスノミコトはこれに応じ、ここからオウスノミコトの名は倭建(ヤマトタケル)になります。
そしてオウスノミコトは短剣で熊襲建の胸にとどめをさし熊襲建は息絶えました。
オウスノミコトは帰路の途中も各地を平定し庶民を救うことに力を尽くしています。
平定とは敵や賊を討ち負かしてその地方に自分の勢力が及び、その地方が安らかになることをいいます。
そして倭建命は出雲国(島根県)の出雲建(いずもたける)を訪ね親しくなり、二人で肥川(ひのかわ)で水浴びをします。
水浴びの後、倭建命はお互いの太刀の交換をしてみないかと出雲建に言ったところ応じたので、太刀を交換してから倭建命がこの場で戦ってみたいことを言うと出雲建はそれにも応じます。
交換された出雲建の太刀は太刀に見せかけた木刀だったため出雲建は太刀が抜けず、倭建命は出雲建を深く斬りつけ出雲建は絶命しました。
倭(やまと)の国(奈良県)に帰った倭建命は天皇に西方と出雲国も征伐したことを報告します。
天皇はますます倭建命を怖がり、自分のそばに倭建命をいさせないように取り計らいます。
②【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】次は東方征伐を命ぜられる
次に天皇は倭建命に東方12国の平定を命じます。
倭建命は自分は天皇に遠ざけられていると感じています。
天皇は倭建命に比比羅木(ひひらぎ)(常緑樹の木)の矢尋矛(やひろほこ)を持たせ、無事帰るんだぞと言い送り出します。
倭建命は叔母の倭姫(やまとひめ)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と、危うい時に開けなさいと言われ一つの袋を持たされます。
また倭建命は尾張の国の長(おさ)の娘の宮津姫(みやづひめ)と結婚の約束をしました。
倭建命は東方への道中各地を平定していきます。
相模(神奈川県)へ行く途中その土地の豪族が、野原の中央に沼があり神が荒れ狂い困っているのでその神を倒して欲しいと倭建命に頼みます。
ところが倭建命が野原に入ると野原の周りは火の海になってしまいました。
豪族は倭建命を火で囲み火から出られなくして倭建命の命を狙っていたのです。
倭建命は叔母の倭姫(やまとひめ)からもらった袋の中の火打石(ひうちいし)を取り出し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で周りの草を薙ぎ払い火打石で火をつけました。
するとこれが向かい火となって周りの火を押し返しその火は豪族達へ向かったのです。
そのためその場所の地名が焼津になりました。剣(つるぎ)が自ら抜け出して剣が草を薙ぎ切ったともいわれ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は草薙剣とも呼ばれるようになりました。
また倭建命はこのことから火防(ひぶせ)の神といわれます。
相模国(神奈川県)から上総国(かずさのくに/千葉県)に船で渡るため浦賀水道(うらがすいどう)に出ました。
浦賀水道は三浦半島と房総半島に挟まれた海峡で太平洋と東京湾をつないでいます。
しかし海峡を渡る船で海の中ほどまで来た時急に風が強くなり波が高くなり、船は身動きできなくなりました。
お供をしていた妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)が、船が沈みそうなのは海の神が怒っているためなので自分が海に入って海の神の怒りを鎮めますと言い波の中に沈んでいったのです。
するとすぐに激しい波はおさまり船は進むことができたのです。
倭建命は愛しい(いとしい)妻が亡くなり七日間悲しんでいた時、7日目に波で打ち寄せられた妻の櫛を手に取ると妻の声が聞こえ再び征伐に行くことにしたのです。
海に身を投げた弟橘比売(おとたちばなひめ)のなきがらは「みささぎ島」に漂着しました。
そしてこの地、千葉県南部南房総の千葉県安房郡(あわぐん)に妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)の陵(みささぎ/お墓)を造り、蝦夷(えみし/日本列島の東国/関東地方から北)に征伐へ出発します。
船に大きな鏡を付けると幾隻かの船には風格が付き、蝦夷(えみし)の主たちは勝てそうにないと思い降伏したのです。
倭建命は西へ帰る途中碓氷峠(うすいとうげ/群馬県西部と長野県軽井沢町との境の峠)に登り東南の方を見て亡くなった弟橘比売(おとたちばなひめ)のことを思い、吾妻はや(あずまはや/ああ我が妻よ)と言われました。
この時これまで自分が殺してきた多くの人に思いを寄せ、天皇である父のことを残酷と思うのでした。
ここから日本の東部が東(あずま)と呼ばれるようになりました。
尾張(愛知県)との国境にさしかかった時、副将軍で尾張出身の武稲種命(たけいなだのみこと)が駿河(静岡県)の海で命を落としたことの知らせを早馬から受けます。
倭建命は「ああ現哉々々(ああうつつかな)」と悲しみ、その場所が今の内津峠(うつつとうげ)となっています。
内津峠は今の愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結ぶ標高320mの峠です。
③【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】山の神に力尽きた
尾張国(愛知県)まで帰って来た倭建命は結婚の約束をしていた宮津姫(みやづひめ)と再会し結婚します。
そして伊吹山(滋賀県米原市 よねばらし)に荒れた神がいることを聞き、倭建命は荒れた神を鎮めるため歩いて出掛けることにします。
伊吹山は滋賀県で一番高い山で標高1377mあり、古くから霊峰(神々しい山)といわれています。
山の神が相手ならば素手でじゅうぶんだと思った倭建命は草薙剣を宮津姫(みやづひめ)のところに置いて行ったのです。
伊吹山には濃い霧が流れ不気味で、しばらくして牛くらいの大きさの真っ白い怖そうなイノシシに出会 いましたが、倭建命は神の使いなのだろう今は相手にしないでおこうと言いまた山を登って行きました。
しかしその白い大きないのししは山の神だったのです。
恐れ多く扱われるべきところを軽く扱われたことに怒った山の神は、今度は霧ではなく雲から大粒の雹(ひょう)を降らせます。
倭建命は霧と暗闇で行く方向も分からないまま何とか進むと、霧と暗闇からは抜け出ることが出来ました。
しかし倭建命は疲れ切って意識がぼんやりとしています。
山の下の泉の水を飲むと少し回復しました。そこが今の醒井宿(さめがいしゅく)です。
醒井宿(さめがいしゅく)は滋賀県米原市(よねばらし)醒井に位置します。
④【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】疲れ切った最期
倭建命は今までの疲れが一気にどっと出て歩くことも普通にできない状態に陥り、杖をついて何とか歩きます。
倭建命の足は浮腫(むく)んでこぶが出来よたよたと歩き、力がみなぎっていた頃と比べると別人のようになっています。
そして尾津前(おつのさき/三重県桑名郡多度町/たどちょう)の一本松まで辿り着くと、佩刀(はかし/貴人の太刀)が置き忘れになっていることに気付きます。
佩刀(はかし)は倭建命が遠征に行く時にここで食事をした後、置き忘れたままになっていたのです。
倭建命はそこから少し進んだあと休んだ時、自分の足は三重(みえ)に曲がったようで疲れ切ったと独り言を言います。このことからこの地は三重といわれます。
伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)に着くと容態が急に悪化します。
死期を悟った倭建命は天皇に蝦夷(えみし)を平定したことの御挨拶ができなかったこと、もう天皇にお会いすることができないことが残念ということを家来から天皇に申し伝えてもらいます。
倭建命はこの世を去る間際に「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山隠れる(やまごもれる) 倭し麗し(やまとしうるわし)」と歌を詠みます。
このような状況で倭建命は能褒野(のぼの)の地で御年30歳で亡くなりました。
それを聞いた景行天皇はお亡くなりになった倭建命を、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に埋葬させます。
后の宮津姫(みやづひめ)や御子(皇子・皇女)達はただちに倭建命を、能褒野陵(のぼののみささぎ)に埋葬しました。
三重県の亀山市には、倭建命のお墓とされる熊褒野御墓(のぼのおんぼ)があります。
⑤【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】御霊は白鳥の姿で空を翔ぶ
お亡くなりになった倭建命を埋葬すると陵(みささぎ)から倭建命の御霊(みたま)が大きな白鳥となって高く翔び立ち海の方へ向かって飛んでいくので、后や御子は夢中で追いかけながら4首の詠みました。
そして白鳥は伊勢国からさらに飛んで行き、河内国(大阪府)の志幾(しき/現在の大阪府柏原市)にとどまりました。
志幾(しき)で陵(みささぎ)を造り倭建命の御霊を祀り、白鳥の御陵(しらとりのみはか)と名付けられました。
そして白鳥はもっと高く翔び天に昇りました。
またこの白鳥は尾張国(愛知県)の熱田(あつた)の森まで飛んで行ったとも伝えられています。
名古屋市の白鳥(しらとり)公園ならびに白鳥(しらとり)庭園はこの伝説に因(ちな)んでいます。
⑥【倭建命/日本武尊 ヤマトタケルノミコト】まとめ
草薙剣は宮津姫(みやづひめ)によって尾張国の熱田(あつた)神宮(愛知県名古屋市)に納められ、現在まで天皇の皇位継承の時に共に継承する三種の神器の一つとなっています。
そして伊吹山(滋賀県米原市/よねばらし)の頂上には倭建命の姿を彫られた石像が祀られています。
倭建命が双子の兄弟のオオススノミコトを殺してしまったことで、父の景行(けいこう)天皇が倭建命のことをとても怖がったといいますが当然だと思います。
しかも倭建命は双子の兄を殺すようにとは天皇から命令されたわけではないのに兄を殺してしまったのですから、双子の兄は浮かばれません。
どちらかというと父の景行天皇の気持ちが分かります。
戦い上手といいますが倭建命に殺された人の人数も相当な人数ではないでしょうか。
古代の日本も国内での戦いが激しくて怖い時代ですね。
倭建命は御年30才でお亡くなりになりましたが、今のように交通手段のない奈良時代に日本の西方と東方を平定し相当なエネルギーを使ったのですね。
また伊吹山へ山の荒れている神を鎮めに行く時は勇ましく行ったのに、山の自然との闘いに体力と寿命が限界になるとは倭建命も想像していなかったと思います。
倭建命様、どうか安らかにお眠りください。