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天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います

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菅原道真は尊い学問の神様です。

天満宮に祀られどうか安らかに御霊を鎮めていただきたく、また菅原道真の御霊に心を寄せたいと思います。

地道な努力で学問に励み右大臣になられた末の、陰謀による左遷で命を落とされた菅原道真の無念さは計り知れません。

①【天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います】菅原道真

平安時代(794年~1185年)前期の日本の貴族である菅原道真(すがわらのみちざね/845年~903年)は、平安時代に活躍した学者であり政治家で、学問の神様として天神様と呼ばれています。

天神様には合格祈願・学業成就の御利益があります。

菅原道真は幼少の頃から学問に対して勤勉で勉学を積み出世していき、35歳で文章博士(もんじょうはかせ/令制で大学寮に属して詩文と歴史を教授した教官)になっています。

大学寮(だいがくりょう)とは、律令制のもとで作られた現在の人事院に相当する機関の直轄下の、官僚育成機関のことです。

この時菅原道真の父は、文章博士(もんじょうはかせ)は誉(ほまれ)高い役職で俸禄も高いので、だからこそ人の妬(ねた)みを買いやすいと言い、菅原道真は確かに父の言う通り人から妬(ねた)まれっぱなしで弱音を吐くこともあったのです。

そして宇多(うだ)天皇や庶民からも信頼され899年54歳の時に右大臣にまでなりましたが、政略にはまり無念のうちに59歳でお亡くなりになりました。

政略というのは左大臣藤原時平(ふじわらの ときひら/871年~909年)の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷(させん/低い身分になること)されたことです。

大宰権帥(だざいのごんのそち)とは太宰府(筑前国/福岡県太宰府市)の権官(ごんかん/正官 せいかん)である大宰帥(だざいのそち)に代わって政務をとる大宰帥(だざいのそち)に次ぐ役職のことです。

学者である菅原道真が右大臣とは大出世で、このことに対する藤原時平の妬(ねた)みを買い根拠の無いうわさが醍醐天皇(だいごてんのう 885年~930年)の耳に入り、醍醐天皇はデマのうわさを本気にします。

そのため901年菅原道真は太宰府へと向かい平安京に戻ることを許されないまま左遷した二年後にお亡くなりになりました。

菅原道真は梅の花がとても好きでした。

醍醐天皇の耳に入った根拠のないうわさとは左大臣藤原時平の口から出ていたものです。

897年宇多(うだ)天皇は息子の醍醐天皇に譲位し、若い醍醐天皇が即位します。

そのとき宇多(うだ)天皇の意向で菅原道真を大切な存在とすることを醍醐天皇は守り、藤原時平は左大臣になり菅原道真は右大臣になります。

菅原道真は学者であり、学者が右大臣になることは大出世です。

そのため藤原時平の妬(ねた)みを買い、藤原時平によるデマが広まってしまいます。

デマとは菅原道真は醍醐天皇を天皇の身分から引きずり下ろし、菅原道真の娘の夫である斉世親王(ときよしんのう/醍醐天皇の弟)を即位させようとしているというものです。

このデマをまだ16歳という若い当事者である醍醐天皇は本気にしてしまい、醍醐天皇によって菅原道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されてしまいました。

このことは宇多(うだ)法皇(ほうおう/出家した上皇)も知ることになりましたがどうにもならず、菅原道真の長男をはじめとする四人の子供達まで流罪(るざい/島流し)となってしまいました。

左遷(させん)後の菅原道真の九州での生活は悲惨なもので、役職は与えられず太宰府本庁にも入れず、住居は荒れ放題の廃居のような所で連れて来た幼い二人の子供と粗末な暮らしをし、食べ物も乏しく飢えをしのいでいたといいます。

そのような状況で藤原時平からの刺客(しきゃく/しかく 人を暗殺する人 殺し屋)が絶えず周囲にいたのです。

902年になり子供のうちの一人が亡くなり、903年に妻も亡くなるとすぐに菅原道真も亡くなり、子供のうちの二人目の子供は太宰府から逃れましたが藤原氏に見つかり亡くなりました。

九州へ移り住んだ菅原道真の家族が全員亡くなってしまったことはとても痛ましいことです。

菅原道真は勉学での勤勉さを宇多(うだ)天皇に認められ実力で右大臣にまで上り詰めたのに、それを藤原時平によって無し崩しにされ左遷することになり、ひどいめに合ったままこの世を去ったので、菅原道真の御霊(みたま7)は怨霊の固まりと言われるのです。

菅原道真を陥(おとしい)れることに関わった人は若くして亡くなり、藤原氏の皇太子が何人も幼児のうちに亡くなり、朝廷に雷が落ち七人が亡くなったりと、不吉なことばかりがあまりにも多々起きるようになっていきました。

901年藤原時平の陰謀により醍醐天皇が菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)へ左遷(させん)し、菅原道真の子供や右近衛中将(うこんえちゅうじょう/令外の官)源善(みなもとのよし)らを流罪と左遷(させん)にした事件を昌泰の変(しょうたいのへん)といいます。

昌泰(しょうたい)とは醍醐天皇が即位してからの元号です。

901年の昌泰の変(しょうたいのへん)以後30年間の菅原道真の御霊(みたま)の祟(たた)りからくる不吉な出来事の数々は恐ろしいものでした。

偶然でしょうか?必然でしょうか?

人々は亡くなった菅原道真が人々を呪っている、菅原道真の怨霊の祟(たた)りだと言い恐れ、天神信仰が始まります。

朝廷も菅原道真の怨霊に恐れをなし、没後20年目の923年に亡き菅原道真に右大臣・正二位(しょうにい)を与え、流罪となっていた菅原道真の子供の流罪を解除し平安京に呼び戻しました。

正二位(しょうにい)とは日本の位階また神階での位の一つで、律令制における官位では左大臣・右大臣に相当します。

菅原道真は朝廷での権力争いの犠牲の果てに命を落としたのです。

②【天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います】太宰府天満宮

菅原道真の死後この世を呪っているとされる菅原道真の怨霊を鎮めるために菅原道真の御霊(みたま)を祀る所として、919年に朝廷によって菅原道真の御墓の上に醍醐天皇の勅で建てられた神社が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)です。

太宰府天満宮は北野天満宮(京都市上京区/かみぎょうく)とともに天満宮の総本社です。

本殿の造りは流造(ながれづくり)という屋根の前の方が曲線状に長く伸びて入り口側の庇(ひさし)になっている様式で、国の重要文化財に指定されています。

流造(ながれづくり)の建物は、金や朱を用いた煌(きら)びやかな桃山時代の造りです。

菅原道真を御祭神(天満大自在天神/てんまん だいじざいてんじん)とする天満宮は全国に約12000社あるといわれています。

天満宮という名称は菅原道真の死後の神としての名前の天満大自在天神からきています。

天満宮は神仏習合している仏法神です。

また菅原道真の怒りが天に満ちたと言われたことから天満と言われるともいわれます。

菅原道真は丑(牛)年生まれで、しかも丑の年の丑の日の丑の刻生まれだったことや、普段から牛を可愛がっていたことでも牛と縁があります。

菅原道真は太宰府に左遷されてから二年後に亡くなりましたが、生前に菅原道真は遺体を京都に運ばれることを望まず大宰府に葬られることを望んでいました。

そのため柩(ひつぎ)を牛に引かせたところ、まもなくして牛が動かずに途中で座ってしまったため、従者達はこの場所に葬るというお告げと思いその地に御墓を造り、そこが現在の太宰府天満宮になりました。

その時の牛が座り込んだため天満宮の牛は殆どが臥牛(がぎゅう)と言われる座った牛です。

臥(が)とは臥床(がしょう)の臥で、横になっている、という意味です。

天満宮の牛は「お使いの牛」といい、お使いというのは神や仏のお使いのことで、つまり天神様のお使いという意味で、撫でると願いを叶えてくれると言われています。

日本三大天満宮は太宰府天満宮(福岡県太宰府市)・北野天満宮(京都市上京区/かみぎょうく)・防府(ほうふ)天満宮(山口県防府市/ほうふし)です。

③【天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います】北野天満宮

北野天満宮(京都市上京区/かみぎょうく)は947年に創建され、太宰府天満宮と共に天満宮の総本社で「北野の天神さん」と呼ばれています。

北野天満宮では天皇・国家・国民の平和を願う信仰がされ、菅原道真の家柄が学者家系だったことと菅原道真が勉学に励んでいたことで、江戸時代からは菅原道真は学問の神様として知られています。

合格祈願や学業の成就の神様として広く知られる学問・誠心・厄払いの神様です。

左遷(させん)で太宰府に移った菅原道真が亡くなった後、朝廷で不吉な死が相次ぎ、朝廷に落雷があり七人が亡くなった清涼殿(せいりょうでん)落雷事件(930年)がありました。

そのため醍醐天皇は菅原道真の祟(たた)りと考えました。

多治比文子(たじひのあやこ/菅原道真を育てたといわれる)・近江国(滋賀県)比良宮(ひらのみや)の神主神良種(みわのよしたね)・北野朝日寺の僧侶最鎮(さいちん)らが朝廷の命により947年に菅原道真の御霊(みたま)を祀るために京都に北野天満宮を建て菅原道真を神として祀りました。

天満宮ではどこにでも「使いの牛」がいて殆(ほとん)どがゆったりと座った姿勢をしていて、人々を安らかな気持ちにしています。

天満宮では使いの牛と梅が特徴になっています。

菅原道真の死後の名前である天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の大自在天(だいじざいてん)はヒンズー教におけるシバァ(三主神/ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ/の一神)の仏教でのお姿のことです。

大自在天(だいじざいてん)は仏教に入り仏法守護神となり、像は一般に三目八臂(さんもくはっぴ/臂はひじと言う意味)でお顔が一つ・目が三つ・手が八本のお姿で天冠を付け三叉(ざ)の戟(げき/矛 ほこのこと)を手に持ち、白牛に乗っています。

④【天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います】防府(ほうふ)天満宮

防府(ほうふ)天満宮(山口県防府市/ほうふし)は904年に創建された、日本で二番目に天神様をお祀りした神社です。

菅原道真は九州太宰府へ行く途中周防国(すおうのくに/山口県)の防府(ほうふ)の地から、いよいよ船で九州に出発しました。

菅原道真は防府(ほうふ)の地で、ここはまだ天皇のいる京と陸続きであるため、この地に住まいを構えて無実の知らせを待っていたいと言っていたといいます。

気の毒でいたたまれませんね。

この防府(ほうふ)の地に天満宮が建てられました。

なお日本で一番古い天満宮は菅原道真の在世中の901年に建てられた生身(いきみ)天満宮(京都府南丹市/なんたんし/園部/そのべ)です。

菅原道真が太宰府に左遷(させん)されたとき園部の代官の武部左衛門尉(たけべさえもんのじょう)治定は菅原道真の八男の養育を頼まれ、密かに菅原道真の像を安置して生祀(いきほこら)としたのが始まりとされます。

園部の小麦山には菅原道真の邸宅がありました。

武部左衛門尉治定は菅原道真の八男を育てながら菅原道真の無事を祈り京への帰りを待ちわびたといいます。

菅原道真には妾(めかけ)もいて十五人の子供がいました。

⑤【天満宮 菅原道真の御霊に寄り添います】まとめ

菅原道真の百人一首での歌は「このたびは 幣(ぬさ)もとりあえず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに」です。

この歌の意味は、この旅(度)は急な旅でたむける物を用意していませんが奇麗な山の紅葉を幣(ぬさ/神様に供えるきぬ・麻・紙)の代わりに神様に捧げます、というものです。

菅原道真は学問に対する勤勉さを宇多(うだ)天皇に認められ出世し、右大臣にまでなったにもかかわらず左大臣の藤原時平によって陥(おとしい)れられ、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷(させん)となり平安京から出されたことは藤原時平の妬(ねた)みからくる陰謀以外の何ものでもありません。

結局何の罪も無い菅原道真がひどい目に遭い藤原時平はしめしめと思ったところだと思いますが、藤原時平は39歳という若さで熱病に罹(かか)り亡くなっています。

やはり神は見ていたということで、菅原道真から藤原時平に直接仕返しはしなくても、絶対的な神からの天罰が下ったのだと思います。

藤原時平に対しては因果応報そのものです。

菅原道真が左遷(させん)で九州へ妻と子供二人と移り、二年程で四人共お亡くなりになられたことが気の毒でいたたまれません。

菅原道真公と御家族の御冥福を心からお祈り申し上げます。

また菅原道真公は尊い学問の神となられたことで、全国民の心の拠り所として生き続けています。

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