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釈迦如来 【仏像の原型になりました】

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お釈迦様

釈迦如来は一番古くに造られた仏像で人々にお釈迦様のお姿を示すために、悟りを開いたお釈迦様のお姿としてお釈迦様の入滅後500年ほどして造られるようになりました。

日本では6世紀末の飛鳥寺(あすかでら/安居院 あんごいん)の釈迦如来が現存する最古のものです。

釈迦如来は後の他の仏像の原型になりました。

髪型や衣服や手の印相(いんそう)に特徴があり、一つ一つに意味があります。

①【釈迦如来 仏像の原型になりました】仏像の原型になった

如来とは悟りを開いた人のことをいい、紀元前5世紀頃にお生まれになったお釈迦様は80歳でお亡くなりになるまで、因縁にまつわる説法や人は生・老・病・死は免れなくても幸せになる為に生きることを説かれました。

そして当時はお釈迦様の写真も絵も無い時代でお釈迦様のお姿が遺されたものはなく、お釈迦様の説法は弟子達の口伝がまとめられたものが現在にいたっています。

釈迦如来は仏像の原型になったもので、一番先に造られた仏像で、臨済宗(栄西 えいさい が開祖)・曹洞宗(道元 どうげん が開祖)・黄檗宗(おうばくしゅう / 隠元 いんげん が開祖)・日蓮宗(日蓮が開祖)の御本尊になっています。

釈迦如来が造られたのちに、阿弥陀如来や薬師如来や毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)などが造られていきました。

仏教が伝来したのが飛鳥時代で、日本最古(6世紀末頃に創建され596年に開業)の寺院である飛鳥寺(あすかでら/奈良県高市郡 たかいちぐん 明日香村飛鳥)の本尊の釈迦如来坐像は現存する日本最古の仏像で、飛鳥大仏と呼ばれています。

飛鳥寺の本尊の釈迦如来坐像は銅造で重要文化財になっています。

飛鳥寺は正式名称は安居院(あんごいん)といいます。

また仏教を深く信仰した聖徳太子によって、607年に奈良大和路の斑鳩(いかるが)の地に建てられた法隆寺(奈良県生駒郡 いこまぐん )の金堂の釈迦三尊像がよく知られています。

法隆寺金堂の釈迦三尊像は銅造で国宝になっています。

お釈迦様の入滅後500年ほど経つとお釈迦様の説法とともにお釈迦様のお姿にも関心がもたれるようになり、お釈迦様の悟りを開かれてからのお姿を像で示すことで人々にお釈迦様のお姿がイメージできるようになりました。

視覚から入るインパクトというものはとても強いもので、よく一枚の絵は1000個の言葉に匹敵すると言われるほどです。

お釈迦様も像で悟りを開いたお姿が示されることで、人々に与えるお釈迦様の印象に天と地ほどの違いがつき、お釈迦様を思い浮かべる時、生前のお釈迦様の様子が像として思い浮かべることができるのです。

また像にお釈迦様の魂が宿ると思えるのであれば、像を信仰の対象物とすることもできるのです。

釈迦如来のお姿は質素で、服装は体に袈裟(けさ)を巻いているだけです。

お釈迦様は苦行の末に悟りを開いたのでゴージャスな衣装を着ていると不釣り合いで、苦行を思わせる法衣(ほうい)である袈裟(けさ)を一枚まとっていることがお釈迦様のイメージに合います。

お釈迦様が修行中に着ていた粗末な袈裟(けさ)を衲衣(のうえ)といいます。

袈裟(けさ)とはインドで仏教の修行者と他の宗教の修行者を区別するために用いられた、僧侶が身につける布状の衣装のことです。

袈裟(けさ)はもともと赤褐色であったことから古代インド語で赤褐色のこととして カーシャーヤ と呼び、カーシャーヤの音写として袈裟(けさ)となりました。

髪型は螺髪(らほつ)というパンチパーマのように見える、全ての髪の毛が細かく右巻きにぐるぐる巻きになった髪型で、頭の上に肉髻(にっけい)という盛り上がりがあります。

これは髪の毛で盛り上がりを付けているのではなく、悟りを開いた人の象徴的なお姿として頭の上が二段のようになっています。

螺髪(らほつ)と肉髻(にっけい)は共に、お釈迦様が智慧(ちえ)に優れていて智慧がつまっていていることを表しています。

白毫(びゃくごう):毫(ごう)とは少し、わずかという意味です。額の真ん中にある小さい右巻きの白い毛で、光で世界を照らしています。

三道(さんどう):首に横向きにある三段の皺(しわ)で、ふくよか感を表しています。

「仏相(ぶっそう)の三十二相(お釈迦様の身体に具わっている32の特徴)」には含まれていませんが、仏相の大きな特徴の一つです。

結跏趺坐(けっかふざ):片方の足の甲を反対側の足の太ももの上にのせる座り方です。

結跏趺坐(けっかふざ)は坐像ではよく見られる座り方です。

蓮華座(れんげざ):仏教の花であるインド原産の、泥の中から奇麗に咲く蓮の花の形をした台座です。

蓮の花は智慧(ちえ)の象徴です。

または、須弥座(しゅみざ):如来がよく座る、須弥山(しゅみせん)を思いえがいた台座です。

須弥山(しゅみせん)とは仏教やヒンズー教で、世界の中心にあるとされる空想上の高い山のことです。

サンスクリット語(古代インド語)の スメール の音写で、妙高山(みょうこうせん)と訳されます。

お釈迦様の手にはその時のお釈迦様の状態が現れています。

釈迦如来は右手を胸の前で手のひらを上向きで外側に向けた施無畏印(せむいいん)と、左手を下げ左膝の上で左の手のひらを上向きにした与願印(よがんいん)の印相(いんそう)が特徴です。

施無畏印(せむいいん)には畏れなくていいという人々を安心させる意味があり、与願印(よがんいん)には人々の願いを聞き叶えさせるという意味があります。

また説法印(せっぽういん)は左手の人差し指の根元を右手の人差し指で差している印相(いんそう)で、説法していることを表しています。

そして右手の人差し指を下に向けているときは降魔印(こうまいん)で、お釈迦様が悪魔を退散させたときを表す印相(いんそう)です。

お釈迦様が瞑想している時は禅定印(ぜんしょういん)という印相(いんそう)で、両手を膝の上で輪を作るように組みます。

この禅定印(ぜんしょういん)では両手の親指を上側にし、他の四本の指を下側にして輪をつくります。

両手の印相(いんそう)でお釈迦様のその時のご様子が分かります。

②【釈迦如来 仏像の原型になりました】天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)とおっしゃた時の像

お釈迦様には母の右脇から生まれてすぐ「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という産声を上げ右手で天をさし、左手で地をさし、七歩歩いたという言い伝えがあります。

勿論そのくらい偉い人だったという例え話ですが、この時のお姿のとても可愛らしい仏像もあります。

「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」の意味は、この世では私だけが立派というものです。

この言葉はつまりは私(お釈迦様)だけを頼るようにという解釈になり、お釈迦様が入滅の前に説いた「自洲法洲(じすほっす)」の教えの頼るのは自分とお釈迦様だけで、人を頼りにしてはいけないということに通じています。

お釈迦様には前世の力が強く残っていて、生まれたばかりのお釈迦様に天と地を指さし「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言わせ7歩歩かせたと言われています。

お釈迦様は紀元前5世紀頃の4月8日に、現在のインド国境近くのネパール中南部のルンビニー(藍昆尼 るんびに)の無憂樹(むゆうじゅ)の花園で母マーヤー(摩耶)夫人からお生まれになりました。

無憂樹(むゆうじゅ)という木の名前は、悲しい事やつらい事などの憂いが無い縁起のいい木として、結婚や出産の幸福を祈る木としてお釈迦様がお生まれになった後に、無憂樹(むゆうじゅ)と名付けられました。

③【釈迦如来 仏像の原型になりました】涅槃に入る時の像

涅槃(ねはん/亡くなること)に入る時の臥像があるのはお釈迦様だけで、臥像であるならば釈迦如来です。

お釈迦様はいよいよ涅槃に入る時が近づいた時、大病を患いながらも弟子達を連れて故郷に向かいながら説法をしながらの旅を続けました。

そして最期は今のネパール国境近くのインドのクシナーラーで迎えます。

クシナーラーはお釈迦様入滅の地とされ、四大聖地の一つになっています。

インドの仏教の四大聖地はいずれもお釈迦様に関する地で、①誕生の地:ネパールのルンビニー ②悟りを開いた地:ブッダガヤー ③初めて説法をした地:サールナート ④入滅の地:クシナーラー です。

旅のあとお疲れになったお釈迦様はお釈迦様の弟子で付き人のアーナンダ(阿難陀/阿南 あなん)に、二本の沙羅(さら)の木の間に北向きの床を作らせ、頭を北向きにし右脇を下にして横たわり、最後に静かに諸行無常の説法を弟子達にして80歳の生涯を終えました。

お釈迦様のお亡くなりになった日は不明ですが、日本では2月15日とされています。

お釈迦様はお亡くなりになる時ひっそりとしぼんでいくのではなく体は黄金色に光り輝き、周囲の沙羅双樹の花も咲き誇っていたといいます。

この現象はお釈迦様の80年間の思いやりに溢れた人生を讃えたものです。

④【釈迦如来 仏像の原型になりました】まとめ

釈迦如来を見たらまず印相(いんそう)を見て、お釈迦様が何をしている時なのかを知ると、その釈迦如来に対する理解が深まります。

細かい部分の意味を知ると、仏像を見ることがとても楽しく、また仏像に親しみを持てます。

寺院や仏閣また仏像は日本の華やかな文化の象徴です。

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